徳川家康(1542-1616)

徳川家康のイラスト

簡単に言うと

  • 戦国時代に松平家で生まれた。
  • 今川の部下から、織田の部下になり、豊臣の部下になった。
  • 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝って天下を取り、戦国時代終了。江戸で政治を始めた。
もう少し詳しく
  • 戦国時代、三河(今の愛知県)岡崎城の松平家に生まれ、竹千代と名付けられた。
  • 今川と織田に挟まれたエリアにあり、父は今川義元派だった。
  • 父が今川派なのに、母(お大)の実家が織田派になってしまい、父は母と離縁、竹千代は3歳で母と離れ離れになった。
  • 6歳の時、今川の人質に差し出されることに。だが、連れて行ったやつが実は織田派で、騙されて織田信秀の元へ。喜ぶ信秀。
  • 「織田派にならんと子供の命はないぞ!がーっはっは!」と脅された父だったが、今更今川を裏切るわけにもいかず、子供を見捨てた。それでも信秀は竹千代を可愛がり、殺さなかった。
  • その後、今川が人質として竹千代を取り戻し、竹千代は駿府(今の静岡県)で8歳から19歳まで過ごした。
  • 8歳の時、安倍川の石合戦を見て、数が少ない方が勝つ、と予言して、「大した子供じゃ」と家来に感心された。
  • 14歳で元服、名を「元信」に変えた。
  • 16歳で嫁(築山殿)をもらい、名を「元康」に変えた。
  • 今川義元VS織田信長の争いで、今川にこき使われる松平家。
  • 今川義元が、織田信長の奇襲にあい、桶狭間で殺された。元康は岡崎城にやっと戻ることができた。
  • 21歳で今川を捨て、織田信長(29歳)と手を組む。その後「家康」となり、今川の領地を攻めていった。
  • その後「松平」を「徳川」に改め、徳川家康が誕生した。
  • 今川の領地を狙っていたが、そのころ、同じく武田信玄も狙っていた。武田と手を組んで今川と戦い、今川は滅んだ。
  • 武田に気を許せない家康は、武田が恐れている上杉謙信と同盟を結んだ。武田はびびってが今川から奪ったばかりの駿府城から撤退、家康はかつて人質時代を過ごした駿府城を手に入れた。
  • その頃、ブイブイ強くなっていく織田家について、徳川家は戦っていた。
  • 上杉謙信・武田信玄・織田信長の3強が戦っている中、勢いのある武田信玄が家康のいる浜松城へ迫ってきた。・・が、通り過ぎていきそうだったので籠城していれば良かったのに、「もしかしたら勝てるかも!」と家康は無謀にも戦いを決意した・・がやっぱり惨敗した(三方ヶ原の戦い)。 九死に一生を得たが、たくさんの仲間を失い、家康はこのときの自分を絵にして飾り、反省しつづけた。
  • その後、武田信玄は病死した。
  • 武田の子供の勝頼に囲まれた長篠城から鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が家康に助けを求めに行った。この危ない役を自らかって出た鳥居は、その後武田に殺された。
  • しかしその後、武田は 徳川軍と織田軍にこてんぱんにやられた。
  • でもまだ頑張っている勝頼。家康の嫁(築山殿)と子供が家康を裏切って勝頼と手を組もうとしている、といううわさが流れてしまい、織田は激怒、家康に嫁と子供を殺せと命じた。家康はその通りにした。その後武田はとうとう滅んだ。
  • 怖いもの無しとなった織田の、一番の忠実な家来になった家康。安土城で接待を受けたのが織田との最後だった。その後、織田は明智光秀に本能寺で殺された。
  • その後、明智軍は織田の元部下であった、豊臣秀吉が成敗した。その後は秀吉が権力者となった。秀吉はこれみよがしに大きな大阪城を築いた。
  • 家康は、豊臣の一番目の家来になった。
  • 江戸城をもらい、今後は武力ではなく、政治で国をまとめようとした。
  • 豊臣秀吉が63歳で死去、淀君(よどぎみ)との間の子、秀頼を頼む~!!と亡くなった。しかし誰が見ても次の権力者は家康。家康は大人気だった。
  • それが面白くない石田三成が戦闘開始!関ヶ原の戦いとなった。そして東軍:家康が勝利し、とうとう最高権力者になった。
  • 江戸で幕府を開いて、二度と戦国時代に戻らぬよう、大名を頻繁に江戸に通わせる、という参勤交代を行わせた。金も時間も使うし、これで大名は戦いどころではなくなった。また、道路は発展した。
  • 75歳で亡くなった。

読んだのはこれ

ほろ酔い育児日記 23ページ
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